山崎蒸留所と日本のウイスキーの誕生

|Benjamin Smith
Yamazaki Distillery And The Birth Of Japanese Whisky

山崎蒸溜所を語らずして、日本のウイスキーを語ることはできません。京都近郊、三河が合流する静かな谷間に位置する山崎蒸溜所は、日本初の商業用ウイスキー蒸溜所であっただけでなく、スコットランドの最高級ウイスキーに匹敵する、それでいて独特の日本の魂を持つウイスキーを造りたいという夢を体現した場所でした。1923年の設立は、日本のスピリッツの歴史における重要な節目であり、二人の偉大な人物が共有したビジョンの直接的な成果でした。鳥井信治郎と竹鶴政孝。

日本のウイスキーの創始者たち

鳥井信治郎と竹鶴政孝は、日本のウイスキー産業の発展に大きく貢献し、その影響は今もなお色濃く残っています。1879年に大阪で生まれた鳥井は、既に医薬品、そして後にワイン・スピリッツ業界で成功を収め、現在のサントリーホールディングス株式会社の前身となる寿屋を設立しました。鳥井は、真の日本のウイスキーを造るという壮大な野望を抱いていました。自身は蒸留酒製造者ではありませんでしたが、ビジネス感覚と揺るぎない決意を持ち、自身のビジョンを実現させました。彼は、その夢を実現するために専門知識を持つ人物を探しました。その人物こそが竹鶴政孝でした。

鳥井信治郎

1894年、広島近郊の酒造家に生まれた竹鶴政孝は、スコッチウイスキーに強い関心を抱きました。若い頃、イギリスに渡り、グラスゴー大学で蒸留技術を学び、スコットランドの蒸留所で実務経験を積みました。留学中にスコットランド人女性、リタ・コーワンと恋に落ち、結婚します。彼女は生涯、彼の野心を揺るぎなく支え続けることになります。

竹鶴政孝

山崎蒸留所が形づくられる

鳥井信治郎は、竹鶴の専門知識こそが自身のウイスキーの夢の鍵であると認識しました。1923年、二人のパートナーシップは山崎蒸溜所の設立へと繋がりました。山崎蒸溜所の立地は、清らかな水、四季折々の多様な気候、そしてスコットランドを思わせる霧と湿気の多い空気など、ウイスキー造りに理想的な環境として竹鶴によって慎重に選定されました。山崎蒸溜所の創業期は、様々な技術や大麦の品種を試しながら、まさに日本独自のウイスキー造りを目指し、日々研鑽と適応を重ねた時期でした。

山崎での二人の共同作業は日本のウイスキーの礎を築きましたが、鳥井と竹鶴は将来について異なるビジョンを抱くようになりました。1934年、竹鶴は独自のビジョンを追求することを決意し、ニッカウヰスキーを設立しました。同社は現在もニッカ・フロム・ザ・バレルシングルモルトウイスキー余市など、高く評価されているウイスキーを製造し続けています。

竹鶴の退任後も、山崎は鳥井の指導と後継のマスターブレンダーたちの卓越した技術によって、繁栄を続けました。ジャパニーズウイスキーが国内外で認知されるにつれ、山崎は高品質と伝統の代名詞となりました。その影響力は自社製品にとどまらず、ジャパニーズウイスキー造りの美学と哲学全体を形作りました。

山崎の永続的な遺産と生産

サントリー山崎蒸溜所は、今日も世界屈指のジャパニーズウイスキーを造り続けています。様々な種類の蒸留器と樽を用いることで、多様な風味プロファイルを実現しています。山崎のウイスキーは、その繊細なバランス、複雑さ、そして繊細なニュアンスで知られ、その土地特有のテロワールを反映しています。

蒸留所の水源、地域の気候、そしてミズナラの使用は、山崎独特の風味プロファイルに貢献しています。 山崎12年、山崎18年、山崎25年、山崎ディスティラーズリザーブ、そして山崎ミズナラといった銘柄は、蒸留所の卓越した技術とこの地域特有のテロワールを体現しています。

山崎が重要な理由

山崎が日本のウイスキーの歴史において果たした役割は、計り知れません。山崎は単なる蒸留所ではなく、一つの産業の発祥地です。日本の職人技、革新性、そして品質へのこだわりの象徴です。今日、ジャパニーズウイスキーが世界的に高い評価を得ていることからも、このブランドの影響力が見て取れます。創業100周年を迎えたサントリー山崎蒸溜所は、卓越性のベンチマークとなり、世界中のウイスキー愛好家に日本のスピリッツの個性を探求するインスピレーションを与えています。

写真提供:サントリー

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